ジャッジメントとサバイバル

最近、アジア系住民へのヘイトクライムの報道をよく耳にするようになりました。殺伐とした映像が報道されて気が滅入ってしまうこともあります。

ところでクラスではよく「ノン・ジャッジメンタル・マインド」について話をします。そのため「ジャッジメント=悪いこと、やめなければいけないこと」と思われがちですが、被害にあうかもしれないアジア系住民として今ここにいることで、つくづく私達を守ってくれる大切な本能なのだと実感しています。

(ただ、この「ジャッジメント」によって差別が生まれているという側面もあると思うので複雑な気分でもあります)

先日久しぶりに娘を連れて外出したのですが、常に周囲の人や環境を「ジャッジ」している自分に気づきました。

例えば、地下鉄や歩道、公園で。

あからさまな敵意・悪意を感じる人や正気ではなさそうな人が近くにいるかどうかはもちろんですが、もし何かトラブルに巻き込まれた時に助けてくれそうな人はいるか、逃げ道はあるか。もし襲われたら被害を最小限に抑えるにはどうすればいいのか。瞬時に様々なことを考え、判断して最善と思われる行動をしていました。

また、ここでどのような判断をするかは自分の「サバイバル・ボディ」とも直結しています。私は小柄なので、どう考えても力ではかなわないような筋骨隆々とした人がいるとやはり無意識に身構えてしまいます。全くの偏見と言えばそれまでなのですが、私と同じ子連れの人ならば安心だな、とほっとしたりもします。逆の立場で考えたら、こんなご時世では大柄で逞しい人は「自分は脅威ではない」ということを無言のまま周囲にアピールせざるを得ず、肩身の狭い思いをしているのかもしれません。

安心・安全な日常ではさほど明確に意識することはありませんが、私達が生きていく上では常に自分の立ち位置や相手との関係性を「ジャッジ」して行動を選択しています。日々の生活と深く結びついた、切っても切れないものだからこそ「ノン・ジャッジメンタル・マインド」は難しいのです。

そんなことを考えながら歩いているうち、ルーシッド・ボディの概念で自分の反応を分析してみようと思いました。

まず、つねに警戒心を持って行動すること、全身の神経を研ぎ澄ませて危機を察知すること、身を守ること。これはやはり第一チャクラです。

ここで面白いと思ったのは(「面白い」というのは語弊があるかもしれませんが)、実際に自分が襲われたり犯罪の現場を目撃したりした訳ではないということです。つまり「危険が潜んでいる可能性がある」という意識だけでいつもと同じ景色が全く違ったものに見えてきます。

これは「想像の世界で生きる」という演技の本質に通じるものがあると思いました。

また、第六チャクラの「今、アジア系にとってここは危ない」という判断に第一チャクラが反応していると言えるかもしれません。

「実際には危険がないかもしれない場所」でも気を緩めずに生きている今の感覚は、そのようなサバイバル・ボディを持つキャラクターを演じる日が来た時にはきっと役立つのだろうとも思います。外出時に常に警戒心を持って行動するのはとても気疲れしてしまいますが、この感覚が生かせる役を演じる日がきたら儲けものと思って、転んでもただでは起きない精神で頑張ります。

皆さんもくれぐれも気をつけて。早く平和で安心・安全な世の中になりますように。